沖縄が本土復帰してから今日で52年になる。暦には緑色で沖縄本土復帰記念日と印字されているが復帰を祝う雰囲気はどこにもない。本来なら全県民あげて、否、全国民が5月15日を祝って然るべきはずだが、毎年この日は閑散としている。祝賀気分になる県民はほとんどいない。
その理由は言うまでもない、「本土並復帰」と言った佐藤栄作総理大臣の沖縄との約束が反故にされたからだ。最初「本土並復帰」と聞かされた沖縄側は小躍りして喜んだ。これで米軍基地は大幅に縮小される。しかし現実はそうではなかった。広大な米軍基地は縮小されず、そのまま居座り続けた。
「本土並復帰」は大嘘だったのだ。サンフランシスコ平和条約で沖縄を切り捨て、20年を経て復帰した同胞の顔に泥を塗る。政府の沖縄蔑視はその時に始まったわけではない。沖縄の歴史を紐解くと、本土の権力者側による沖縄蔑視は1609年の島津氏進攻以来続いている。
しかし今は、当時の歴史まで遡ろうとは思わない。1972年の本土復帰を起点として考えたい。なぜ佐藤首相は「本土並復帰」と言う出来もしない大嘘をついたのだろうか?
当時の佐藤首相の心操を調べたわけではないのでよく分からないが、戦争で奪われた領土を平和的手段で取り戻すという歴史的快挙を成し遂げて歴史に名を残す、そんな強い名誉欲があり、実現させるためには「本土並復帰」を沖縄側に提示する必要があった、なぜなら既に米政府に米軍基地は返還しないと言われていたので、沖縄側を納得させるためには嘘をつかなければならない立場にあった、これが佐藤首相の大嘘の真相だろうと思う。
「本土並復帰」と言わず、米政府の意向通り米軍基地の返還はないと沖縄側に言えば、大反対運動が起きるのは必然で、そうなると復帰は遠のき、佐藤首相の歴史的功績は消え去る。だから「本土並復帰」と大嘘をついたのだ。勿論、強かな計算の上で。
政府主催の復帰記念式典 1972年5月15日 那覇市民会館
いずれにしても沖縄は本土復帰した。施政権は返還されたが米軍基地はそのまま残るという歪な形で。
今振り返ると、本土復帰に対するウチナーンチュの反応は様々であった。復帰運動を積極的に展開したのは教職員組合を中心とする革新系の人々だった。米軍の圧政のもとで沖縄人には人権がなく、日本の平和憲法の下で人権を保証してもらおう、というのが彼らの主張だった。沖縄自民党は復帰に反対だった。復帰すれば戦前のイモと裸足の時代に戻る、と言うのが彼らの主張だった。米軍と利権構造ができていた沖縄自民党だから言えるさもしい言葉だった。
別の立場から本土復帰に反対する人々がいた。天皇制を否定する新川明と琉球独立を訴える野底武彦だ。新川明はのちに沖縄タイムスの社長になる人物で、復帰前から反対の論陣を張るラディカルな言論人で、復帰後もその姿勢は変わらなかった。反復帰、反大和を唱える層の指導的言論人である。
野底武彦の琉球独立は現在、屋良朝助に引き継がれている。琉球独立を唱える人間は少数ではあるが根強いものがある。琉球民族独立総合研究学会を立ち上げた松島泰勝もその一人で、『琉球独立論』という本格的な独立論を展開した本も上梓している。
沖縄の言論界を並べるとキリがないが、またぼくのような浅学の任でもないが、その思想を調べると結構複雑かつ深いものがあり、本土復帰を単純に、また表面的に見るのは沖縄の人々に対して失礼であるとだけ指摘しておく。
最後に本土復帰に対するぼくの感想を簡潔に述べる。本土復帰して良かったと思う気持ちが半分、まずかったのではないか、他の方法があったのではないか、と思う気持ちが半分、といったところかな。
良かった点。それは日本国憲法(実際はGHQ憲法)の下で曲がりなりにもなんとか人権が保護されているという点、これが一番大きい。そして文化的に本土と沖縄では異なる面はあっても、やはり日本人であることに変わりはないし、復帰によって沖縄と本土の交流が普通にできることは有難いことである。
まずかった点。米軍の存在。この問題は日本国の在り方に関わる非常に大きくて深刻な問題である。佐藤首相が「本土並復帰」と嘘をつかざるを得なかった原因は、米軍の支配下に置かれているが故であり、米軍の圧力に一国の総理大臣が屈服する悲しい現実を背景とした本土復帰は、道半ばと言わなければならない。
5月15日を全国民が祝賀できるようにするためには、どうしても今の米軍支配を終わらせなければならない。その方法として日米安全保障条約という不平等条約を一刻も早く解消して、アメリカから独立する。
独立すれば当然、日本全国から米軍は撤退せざる得なくなる。日米地位協定も日米合同委員会も消滅する。
日本よ、アメリカから独立しよう!