人生になんの意味も見出せなくなったロカンタンが次のように述べるくだりがある。
「Oui, c’est ce que je voulais - hélas ! c'est ce que je veux encore. J'ai tant de bonheur quand une Négresse chante : quels sommets n’atteindrais-je point si ma propre vie faisait la matière de la mélodie.」(folio版63ページ)
「そうだ、それが私の欲したことだった ー ああ!しかも今なお私はそれを欲しているのだ。黒人の女歌手が歌うとき、私は大きな幸福感を覚える。もし私自身の生がメロディの素材になるなら、私の到達する幸福の絶頂はどれほどのものになるだろうか。」(鈴木道彦訳)
ぼくは人間の在り方は実存であると、サルトルから学んだ。自由が核心部にある存在、それが実存である。しかし厄介なことに、人間の自由を定義づけることはできない。自由は定義を超えている。常に定義する側にいるからだ。無理に自由を定義しようとすれば、必ず指の間をすり抜けていく。何度も何度も永遠に。だからこそ自由なのである。
その自由な人間が完全に満たされることはない。何をしても、何かを達成しても、自由そのものは未達の状態のままである。自由が完全に満たされたら自由は死ぬ。
L'homme est une passion inutile. (人間は一つの無益な受難である。)
サルトルは『存在と無』の最後にこう書きつけた。ロカンタンもおそらく、このことは理解していたことだろう。しかし、なんの意味もない自分の人生がメロディの素材になるなら、自分の人生は救われないだろうか、と考えた。それが最初に引用した文章である。
その文章を読んだ時、ぼくは思わずハッとした。無意味な人生を正当化してくれる力が、果たして音楽にはあるのだろうか? あるようにも思われるし、ないようにも思われる。しかし、救いに似たような感情を抱く瞬間があることは確かである。